2011年2月11日金曜日

「エジプト」


数日前から、エジプトが世界に誇る歌姫ウンム・クルスームの哀愁を帯びた歌声が、幻聴のように右脳から前頭葉にかけて流れている。

ここ数年のエジプトについて、私は多くを知らない。
もちろん、今月下旬から始まった「革命序曲」について、専門家でもない私が何かを語ることはあまりに無責任だろう。
ただ、かの地に対するありったけの思い出は、ある。
カイロ中心部で起こっている100万人規模の大規模なデモの映像を見ながら、ふと、私が初めてエジプトの地を踏んだ日のことが鮮明に蘇る。もうかれこれ20年近く前のこと。

モスクワでなけなしの金で手に入れた、カイロ行きアエロフロートのエコノミー席。地中海上空で乱気流に出くわし、機体が大揺れに揺れる中、なんと操縦を放棄し、副操縦士に運航を任せたパイロットがウオッカで酔っぱらい、客席でスチュワーデスや乗客たちに絡んでいた。
今ではとても考えられない光景を目の当たりにしながら、私は窓の下に北アフリカの煤けた大地が茫然と顕れたことにひとり気付く。

その数時間後、カイロ中心部、タハリール広場。イスラエルの入植計画に対する大規模なデモ隊が四方八方から集まり出し、所かまわずイスラエルの国旗を燃やしはじめる群衆。そしていつの間にかにその真っ只中にいる自分に気付き、唖然。数分後、軍の装甲車が広場に押し寄せ、乾いた音の空砲が辺りを一瞬静まらせる。次の瞬間、火炎瓶で応戦する市民に対しスモークが焚かれ、若き日の私は必死に霞む目をこらえて走った。

その当時、既にもう、いま、連日のようにメディアに登場するムバラク大統領が、80年代初頭に暗殺されたサダト元大統領の後釜につき、約10年の歳月が流れていた。

アラビアンナイトを絵に描いたような迷宮バザール、クハーン・アル・ハリーリの雑踏をさまよい、ふと見つけた古ぼけた宿にその夜、私は眠りに就いた。ラマダーン(断食月)の只中だった。
それから私という名もなきひとりの旅人とエジプトが、幻想的に交わる物語がサーカスのように始まった。

つづく◆

いま再びウッドストック            そして『ジャーナリズムと芸術の共存』



21世紀に入り「娯楽」と「現実」との境目がハッキリと、玄人でなくとも不自然と思えるほど明確になってきている。このことはいままで多くの論者が指摘してきて……指摘だけで終始してしまった点でもある。

かつては、といっても十年程度のかつてであるが、雑誌やテレビというメディアにおいてさえ「娯楽」と「現実」の境目はそれほど目立ったものではなかったように記憶する。
言い換えてみれば、「娯楽=エンターテイメント」と「現実=ジャーナリズム」がそこそこ愛想よく、お茶の間や書斎を濁せていたわけだ。

例えば、カルチャー誌と呼ばれる雑誌では、映画、アート、ファッションといった情報をメインに、少々ポリティカルな話題や国際情勢について“語れる”ページが一冊の雑誌に仲良く収まることが許されていた。

テレビでさえ、世界の自然や遺跡や文化について特集されるとき、大抵はその土地が抱える諸問題についても軽く(あくまでも軽くではあるが)触れることを忘れなかった。

ところが、いつのころからか多くの媒体で異変が生じ始める。テレビ、雑誌、新聞、ラジオ、インターネット等をはじめとした様々なメディアで色分けが始まったのだ。
新聞や雑誌といった比較的歴史のあるメディアでさえ、緊迫した国内外の情勢に強い関心のある方のみどうぞ、といった具合にあからさまな誌面分け、さらには“版元分け”がエスカレートして止まない。
ライフスタイルやマネー運用、趣味やカルチャー、旅行やファッション、芸能ゴシップや美容・健康……
それぞれが細分化され、ピンポイント式に読者層や視聴者層を極端に絞った雑誌や番組が奨励され、受ける側もそれに何の違和感もなく受け身に徹するようになった。
もちろん「発信する側」、「受け取る側」すべてがそんな時代の流れに身を委ねてしまったわけではない。違和感を覚える識者が声高に「これは変だ」「不気味な現象である」と唱えてくれたおかげかどうか、現在のメディアの在り方に異議を唱える方々はうなぎ上りに増えてゆく一方である。
しかし、そういった「警告」を堂々と口にすることのできる知識人や文化人、著名人といった論客が疑問を投げかければ投げかけるほど、かれらの放つ「警告・警句」は娯楽の一種として不思議なことにどこかへと吸収されてしまうのだ。

このような現象をいま、肯定的にみるのか否かはひとまず横に置いておこう。

それよりも、もう一度、あのウッドストックの興奮に立ち返ってみよう。

「中東革命」


2011年という年の「キーワード」は、「革命」という言葉でよいのかもしれない。それはどうしても筆者に1989年を思い起こさせるからかもしれない。
それは“独裁支配”、あるいは“準独裁支配”に対する市民によるカウンター・ムーブメントという点で共通している。

私がもっとも多感だったあの年、天安門事件で幕を開けた。
中国の民主化運動は悲劇的な結末を迎えてしまったけれど、その出来事に刺激を受けたかつての「東欧」(ここではソ連の影響下にあった旧共産圏の国々)がすぐに呼応した。
同年6月にはポーランドが、10月にはハンガリーが、そして11月にはベルリンの壁崩壊とチェコスロバキのビロード革命、12月にはルーマニアのチャウセスク政権崩壊……。

今回、北アフリカの小国チュニジアで火がついた民主化運動は、すぐに隣国のアルジェリアに飛び火し、エジプト、イエメン、ヨルダン、と連鎖し、20年以上の歳月を経て、再び「天安門(中国)」へと皮肉にも一巡しそうな勢いを見せている。現に中国政府は、国民がエジプト情勢に触発されて報道規制を始めてしまった。

1989年の「東欧革命」は当時のソヴィエトを脅かし、結果的に東西冷戦を終結に導いた。2011年の「中東革命」は?
イスラエルという国家の存在意義を揺さぶり、
減速しかけている中国パワーに水を差し、
不安定なレバノンとイランを過激化させ、
これまで先進諸国に住むいわゆるフツーの生活者からは白い目で視られ、被害者意識コンプレックスに苦悩していた世界中のイスラム教徒たちをさらに団結させ、
中東での舵取りを手こずっているオバマ政権にストレスを与え、
日本の政治家たちの痴呆ぶりをさらけ出してしまった。

それぞれの地域について詳しくここで述べてもしかたがない。じゃあ、今回の(中東各国での)民主化運動に対する管政権の反応は?
乱暴に要約してしまえば「ニホンジン観光客の安全確保もあるし、とにかくデモ隊も政府軍も、もうちょっと穏やかにやってくれ」。と、この程度の認識……。

20年前、あの巨大なうねりは、海賊ラジオとTVが大きな役割を果たしたけれど、今回はFacebookTwitter20年そこそこで情報伝達技術も“革命”も様変わりしてしまった。では、20年後の世界ではどんな“道具”で人々は権力に立ち向かってゆくのだろう。