2011年2月11日金曜日

いま再びウッドストック            そして『ジャーナリズムと芸術の共存』



21世紀に入り「娯楽」と「現実」との境目がハッキリと、玄人でなくとも不自然と思えるほど明確になってきている。このことはいままで多くの論者が指摘してきて……指摘だけで終始してしまった点でもある。

かつては、といっても十年程度のかつてであるが、雑誌やテレビというメディアにおいてさえ「娯楽」と「現実」の境目はそれほど目立ったものではなかったように記憶する。
言い換えてみれば、「娯楽=エンターテイメント」と「現実=ジャーナリズム」がそこそこ愛想よく、お茶の間や書斎を濁せていたわけだ。

例えば、カルチャー誌と呼ばれる雑誌では、映画、アート、ファッションといった情報をメインに、少々ポリティカルな話題や国際情勢について“語れる”ページが一冊の雑誌に仲良く収まることが許されていた。

テレビでさえ、世界の自然や遺跡や文化について特集されるとき、大抵はその土地が抱える諸問題についても軽く(あくまでも軽くではあるが)触れることを忘れなかった。

ところが、いつのころからか多くの媒体で異変が生じ始める。テレビ、雑誌、新聞、ラジオ、インターネット等をはじめとした様々なメディアで色分けが始まったのだ。
新聞や雑誌といった比較的歴史のあるメディアでさえ、緊迫した国内外の情勢に強い関心のある方のみどうぞ、といった具合にあからさまな誌面分け、さらには“版元分け”がエスカレートして止まない。
ライフスタイルやマネー運用、趣味やカルチャー、旅行やファッション、芸能ゴシップや美容・健康……
それぞれが細分化され、ピンポイント式に読者層や視聴者層を極端に絞った雑誌や番組が奨励され、受ける側もそれに何の違和感もなく受け身に徹するようになった。
もちろん「発信する側」、「受け取る側」すべてがそんな時代の流れに身を委ねてしまったわけではない。違和感を覚える識者が声高に「これは変だ」「不気味な現象である」と唱えてくれたおかげかどうか、現在のメディアの在り方に異議を唱える方々はうなぎ上りに増えてゆく一方である。
しかし、そういった「警告」を堂々と口にすることのできる知識人や文化人、著名人といった論客が疑問を投げかければ投げかけるほど、かれらの放つ「警告・警句」は娯楽の一種として不思議なことにどこかへと吸収されてしまうのだ。

このような現象をいま、肯定的にみるのか否かはひとまず横に置いておこう。

それよりも、もう一度、あのウッドストックの興奮に立ち返ってみよう。

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